2019年12月04日

当店の店名の由来のおはなし 「吉川写真店」と「しゃしんのポップ」〔その4〕

*この記事は 2019年11月20日付記事 の続きです。

  当店の店名の由来のおはなし
  「吉川写真店」と「しゃしんのポップ」〔その4〕

私は東京都板橋区の下赤塚(現、赤塚新町)で育ちました。
生まれたのも当時の自宅近くの産院です。
父は東京都豊島区大塚、母は同じく中央区佃の出身ですが、代々江戸っ子という訳
ではなく、父方の祖父は長野県の飯田、母方の祖父母は福島県の庭坂の出身です。
両親とも住宅街の核家族で育ったことになります。祖父母の出身地の親戚とのご縁
はもうすでにまったくありません。なので、ご先祖さまから受け継いできた故郷、田舎
というものが、私の家にはありません。田畑や牧場、山や海とも縁が無いので、地元
で自ら手がける食の恵みというのもどこか他人事のような環境で暮らしてきたのです。
(むしろ東京近郊の農地や雑木林が宅地化されて行く様を目の当りにしてきました。)
当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店」のお客さまの多くは、奇異に思われることでしょう。
今お住まいのこの地元こそが、生まれ育った、あるいはこれから暮らして行く故郷に
ほかならないのですから。そのことはごく当たり前のことなのだと、私は日中、お店を
離れることはないのですが、お客さまと接する中で毎日感じさせていただいています。
私の生立ちは宿命的で変えられませんが、人は故郷を想い生きるものだと思います。
私には、自分の故郷から昆布や干物や林檎や蜜柑やお米や乾麺や味噌や醤油など
が届けられるということさえ、極ありふれたことなのに未来永劫あり得ないのですから。

その昔、出稼ぎで江戸へ移住した人自身は江戸っ子としては認められず、孫の代で
ようやく認められたそうです。もっとも、江戸で三世代家を続けること自体容易なこと
ではなかったようで、それは多分、今の東京でもあまり変わらないような気がします。
せっかく三世代続いても、宵越しのお金が持てないのでは洒落にならないですよね。

フランスの画家、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールさんが完成させた最初の実用的な
写真技術、「ダゲレオタイプ」が1839年に一般公開されると、たちまち写真ブームが
起こり、その後改良された技術と共に幕末の日本にも伝わりました。1861年(文久
元年)、鵜飼玉川さんが江戸で日本最初の写真館を開業。翌年には下岡蓮杖さんが
横浜で、上野彦馬さんが長崎で、相次いで写真館を開業しています。

余談ですが私は、
1839年を「一夜咲く」と、語呂合わせで覚えています(歴史のテストには出ません)。
ダゲールさんは商才豊かな天才的芸術家にして発明家でしたが、偉人と言うよりは
奇人に近い、ご家族泣かせの道楽おじさんのようなお方だったらしく、私は好きです。
影のライバルも複数、いらっしゃったようです(歴史のテストには出ません)。
「必要は発明の母」というのは、写真においては多分、嘘だと思います。およそ写真の
発明は発明家の仕事とは思えません。写真を完成させたことが芸術の成せる業です。
(写真技術を発明しようとした人は何人か知られているそうですが実験どまりでした。)

明治末頃の1910年までに、日本各地で多くの写真館や写真材料店が開業しました。
それらは兼業店も含め「写真屋さん」と呼ばれ、主に各地の資産家が経営し、地元の
貴重な記念写真や記録写真を後世へ残すことに貢献しました。ある意味、写真屋さん
は人々にとって故郷のランドマーク(目印や象徴となる建造物など)、情報を発信する
広告塔だったと言えるでしょう。膨大な写真ネガ(当初はガラス板)のライブラリでした。

昭和も半ばを過ぎる頃、1960年以降は交通も飛躍的に発達し、人々の行動範囲は
格段と広がりました。その間も写真屋さんは故郷のランドマークであり続けましたが、
2000年前後のインターネットの普及で状況は一変しました。記念撮影のご予約の
情報源が「電話帳」位しかなかった頃に比べ、お客さまは写真屋さんの予約サイトを
検索し、ご希望の日時にご予約ができるお店さんを広い範囲から選べるようになった
のです。写真屋さんもスタジオの設備や貸衣装、サービスに工夫を凝らし、センスの
良い予約サイトを開設し、商圏を地元以外に広げるべく経営努力されるところが増え
て行きました。誰の手にもスマートフォンがある今の時代はなおさらでしょう。お客さま
の選択肢が広がり、写真屋さんのスタジオ撮影のサービス内容が多様化することは
喜ばしいことですが、同時に写真屋さんが持ち続けてきた故郷のランドマークとして
の意味は薄れて行ってしまうことになるので、何となく寂しい気もします。

写真館と写真店(写真材料店)とを兼業されてきた写真屋さんはかつて多数派でした。
デジカメの普及前は、記念撮影も、カメラやフィルム、電池、アルバムやフレーム類
のお買物も、フィルムの現像、プリントも、すべて地元の老舗の馴染みの写真屋さん
で、それこそ親子三世代にわたって、というお客さまも多くいらっしゃったと思います。
まさに故郷のランドマークそのものですね。お店さんによっては、今でもそうでしょう。
カメラメーカーさんや現像所を持つフィルムメーカーさん、写真用品の問屋さんなど
の強力なお膳立てもお店さんの背後にはありました。スタジオでの記念写真撮影の
お得意さまは、ときに高価なカメラや交換レンズ類のお得意さまにもなり得たのです。
そして写真の腕が上達するよう、たくさんの練習でフィルムを消費してくださいました。
お坊様のように憎くても憎めない、それが地元の老舗の馴染みの写真屋さんでした。

その一方、ひと頃の写真屋さんは、地元のアマチュア写真クラブさんやカメラクラブ
さんのお世話もよくされていたと思います。立地が観光名所でお祭りなどの伝統行事
があると見物のお客さまにもフィルムが良く売れました。心配なのはその品切れです。
化学製品のフィルムは使用期限がありますから仕入れ過ぎて売れ残っても困ります。
写真クラブ会員のお客さまが代表の方を通じてフィルムの予約をまとめてくださると、
写真屋さんは前もって仕入れ数を把握できるので助かるという事情もあったようです。
会員のお客さまの作品は広報誌等にも掲載され、写真クラブさんは地元の自治体や
写真屋さん専属の“写真エージェンシー”のような存在でもありました。

ですが、そのようなビジネスモデルも終焉を迎えようとしています。お店のスタジオが
混み合っていて、駐車場に地元以外のナンバーのお客さまのお車が何台か停まって
いるのを見ると、以前のように気軽に通いにくいとお感じになられるお客さま、あるいは
地元以外のお店のスタジオをご利用なさるようになり、他店さんでお求めのデジカメや
スマートフォンからのプリントだけで通うのは気まずいように感じてしまわれるお客さま
も、近頃は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?

ここまでお話しして、
当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店」のお客さまも、すでにお気付きのことと思います。
当店が、その前身にあたる山口写真さんの支店、「山口写真POP店」から経営を譲り
受けた後現在地へ移転したことも、山口写真さんが写真館専業店として新しい店舗
(旧支店跡)へ移転され駐車場を確保されたことも、ともにお客さまのニーズの変化
に対応させていただくことを目指してのことです。ご理解いただけましたら幸いです。

幼い私が写真や出版の仕事に憧れたのはカラー写真をちりばめた児童向けの本や
雑誌に囲まれて育ったせいです。テレビもありましたがまだ白黒の時代で、常に手元
にあって好きなだけ見られる紙のカラー写真の方が、幼心にも魅力的に思えました。
それに、男の子ですから父のカメラにも興味津々でした。テレビカメラは大き過ぎるし、
自分の物にはできそうにないので写真が良かったのです。はじめからスマートフォン
や児童向けタブレットに接していたら、もしかすると違う道へ進んだのかもしれません。
(危険を冒して自分の行動や体験をスマートフォンで中継する行為は慎みましょう!)

意外に思われるかもしれないですが、実は私の幼馴染みや高校、大学時代の友人、
以前勤めていた都内の出版社の同僚も、時折り当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店」
を訪ねて来てくださいます。ドライブやサイクリングの帰りに立ち寄ってくださるので、
本当にありがたいことです。私が地元出身者なら、幼馴染や同級生がいつもご来店
くださったのかなと代々地元で経営されてきた各地の写真屋さんが羨ましく思えます。
進学の記念撮影もお祝いのカメラのお買物も、幼馴染の写真屋さんでできたなんて。

さて、当店の店名「吉川写真店」の由来ですが、はじめは「吉川商店」も考えました。
「吉川商店」は私の父が祖父から継いだ店名で、父は昨年、2018年(平成30年)
6月に83歳で他界するまで生涯、貴金属宝石卸売商でした。祖父が創業した会社、
「吉川貴金属宝石」から独立し、祖父の代からご縁のあった調金の職人さんたちと、
ずっとお得意さまからオーダーメイドの手作りの宝飾品を受注してきました。店舗は
持たず、自宅が事務所でした。祖父の会社は私の従兄にあたる人が継ぎましたが、
今はもうありません。1950〜60年代までは、東日本で業界最大手だったそうです。

祖父は若い頃、長野県の伊那盆地に位置する故郷の飯田で、最初は郷土食として
も良く知られている信州そばのお店を経営しようとしましたが資金不足に陥りました。
そこで東京で仕事を探したのですが、手先が器用で絵心もあったので、高級家具の
彫刻の仕事に恵まれました。腕も良く、縁あって貴金属の調金の仕事も受けるように
なり、同業の職人さんたちの仕事を増やそうと貴金属宝石専門店「旧、吉川商店」を
開業したのです。大正末の1920年頃だったかと思います。

第二次世界大戦の最中の1940年頃、宝飾品の仕事は需要も在庫も尽き、祖父は
板橋区大山で光学部品の工場を営むことにしました。納品先は大日本帝国軍です。
宝飾品の納品先に眼鏡店も含まれ、その店の経営者の方から勧められたようです。
ところが戦況も悪化し製品の材料も尽き、最後に手を下したのが風船爆弾用の気球
の加工でした。材料の厚手の小川和紙が軍から供給されたといいます。
風船爆弾に関しては、『Wikipedia』(風船爆弾 - Wikipedia)をご参照ください。
埼玉県平和資料館にも、風船爆弾の模型が常設展示されています(公式サイト)。

祖父は最初から軍の作戦の内容は概ね知っていたようです。攻撃目的の軍事関連
製品を請け負ったのは、ほかに仕事が無くなる中で家族や従業員を養うためでした。
風船爆弾の被害の全容は、原因不明の火災も含め今なお判明していませんが、
1945年5月5日、オレゴン州で民間の子供たちや引率の女性が犠牲になりました。
そして、祖父の町工場はその後アメリカ軍の空襲を受けて全焼し、
逃げ遅れた工員の女学生の方が数名、亡くなられたと聞いています。

私には、誰を責めることもできません。

祖父は私が生まれるずっと以前に高齢のため他界してしまいましたが、
父が話していた想い出の中の祖父は、子煩悩で従業員や職人さん、お取引先を
大切にする、勤勉で面倒見の良い紳士だったようです。

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2019年8月6日付記事
  今日、2019年8月6日は、74回目の広島原爆忌です
  http://poppop.sblo.jp/article/186379110.html

戦争が終わると、祖父は近所の方々のために空襲で焼けた工場跡地に銭湯を建て
ました。工場の事業所名が「三笠光学」だったことから「三笠湯」と名付け、父も学生
時代にボイラー室でアルバイトをしたといいます。その後日本の経済も復興したこと
から銭湯は売却し、新会社「吉川貴金属宝石」として貴金属宝石商を再開しました。
やがて日本が高度経済成長の時代に差し掛かると、祖父の会社の在庫も高騰して
利益を生みました。祖父は資金の無い店でも製品を卸したので人望を集めましたが、
あるいは、高騰の後に来る下落を想定して、在庫をなるべく抱え込まない方針だった
のかもしれません。苦労を重ねてきた祖父は、そうすることで困っているお取引先を
助けたかったのでしょう。祖父の葬儀には大勢が弔問に訪れてくださったそうですが、
良かった時代は20年足らずでした。それでも父伯や父、従兄たちは職人さんたちの
仕事を絶やすことはできなかったようです。同業者の間では、相当長く続いた方だと
思います。父から、私に貴金属宝石卸売商を継がせる考えは聞かされませんでした。
私には「商売は向いていない」と、よく言い聞かされたことを想い出します。「手作りの
本物の価値が分かる人は減った」とも(今はロストワックス鋳造の工業生産が主流)。

祖父のような本物の経営者の価値が分かる人も、
今は減ったように思います。

もしも祖父が、故郷の飯田で信州そばのお店の経営に初めから成功していたら?
そして父も私も、その後継者として飯田で生まれ育っていれば?

「たられば」のはなしは無意味かもしれないですが、私は継がなかったと思います。

長野県飯田市の人口は約10万人で、伊那盆地最南部の市街地に集中しています。
その中に写真屋さんの軒数の何と多いことでしょう。ネットで検索し大変驚きました。
大手チェーン店さんも2社出店されていますが正確な軒数は把握できないほどです。
プリント専業の写真店さん、写真館との兼業店さんは、もちろんいずれもデジカメや
スマートフォンで撮影されたお写真の店内プリントサービスにも対応されています。
それ以外にも写真館専業のお店さんも何軒かありますから、本当にお写真を大切に
されている土地柄なのだと思います。確かに風光明媚で、四季の変化に富み、伝統
行事や文化財など観光資源や地場産業にも恵まれ、写真を残す機会は多そうです。
(当店の半径5キロ以内の商圏内の人口は約5〜6万人で、競合店はその外縁まで
も含めて皆無です。つまり、独占状態な訳ですが、何ともまた寂しいおはなしです。)

▽「Google マップ」へ「飯田市、写真プリント」のキーワードを入力し、検索しました。
 長野県飯田市は人口約10万人で、当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店の」の近隣
 では坂戸市や東松山市に相当する規模なのですが、まるで写真屋さん銀座です。
 登山、キャンプ用品店やクリーニング店を兼業されているお店さんもあるようです。
 キーワードを変えても表示されない「フジカラーのお店」もあり、正確な軒数は不明
 ですが、店内プリント対応の写真店さんは少なく見積もっても10軒はありそうです。
 長野県内でより人口の多い市でもこれほど写真屋さんが密集した地域は無いです。
 (上)JR東海飯田線飯田駅及び桜町駅界隈の「Google マップ」スクリーンショット。
 (左右下)長野県飯田市市街地のほぼ全域の「Google マップ」スクリーンショット。
191202_city-iida_01.JPG
191202_city-iida_02.JPG191202_city-iida_03.JPG
 (c)Google マップ

 関連リンク)
  長野県飯田市 / フジカラーのお店検索 | 富士フイルム(公式)
  こちらをクリック。

そして、これは不思議なご縁なのですが、当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店」の臨時
スタッフの仲田のお父さまも、実は飯田と同じ伊那盆地に位置する町のご出身だそう
です。仲田も伊那で生まれ育っていたら、やはり私と揃ってアルプスの山々に抱かれ、
飯田のどこかの写真屋さんの店頭に、一緒に並んで立っていたことでしょう。

なお、仲田の大学卒業後の最初の就職先は、これもまた不思議なことに貴金属宝石
類の輸入会社でした。事務職でしたが、所在地は東京都中央区の築地でした。さらに
不思議なことに、私の母の高校卒業後の就職先は「旧、富士銀行(現、みずほ銀行)」
さんの築地支店で、偶然にも同じ界隈だったのです。

私も仲田も第一子の長男、長女ですが、
だから代々続く家業を継ぐというのは、憧れはしますがどうも柄ではない気がします。

祖父もそうでした。

祖父が始めようとした信州そばのお店は実現しませんでしたが、
私の妹が嫁いだ家の義父は趣味が高じて手打ちそばのお店を開き、一昨年高齢で
引退するまで、約20年間お客さまに愛され続けました。高校の食物科を卒業した妹
を嫁に迎えてくださったのもお店の働き手に有望そうだったからのようです。場所は
当店のある越生町にも近い、嵐山町でした。最初のうちは自分好みの自己流だった
のですが、開業後プロの料理人さんに再入門し試行錯誤した甲斐もあって、本当に
美味しかったです。飲食店の自営は失敗する確立が高いそうですが、大成功でした。
義弟は妹の就職先、「旧、小川信用金庫(現、埼玉縣信用金庫)」さんの同僚でした。

祖父が先の戦争中、生活のため営んだ光学部品工場「三笠光学」ではカメラ関連の
製品は扱っていませんでしたが、その近所で同じ板橋区の大山に、「旧、旭光学工業
(現、リコーイメージング)」さんの本社工場がありました。後にレンズ交換式一眼レフ
カメラ「アサヒペンタックス」を送り出すことになったメーカーさんで、同社製のカメラは
私も長年愛用しています。祖父の「三笠光学」がもし空襲を逃れ戦後も続いていたら、
「旧、旭光学工業」さんからも「ペンタックス」のカメラ関連のお仕事を請けていたかも
しれないと、ふと想像することもあります。

 関連リンク)
  PENTAX HISTORY since 1919 | COURSE OF HISTORY (公式)
  http://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/pentax/pentaxhistory/course/

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2019年9月20日付記事
  【2019年9月20日 開発発表】写真機。それは、
  枕元に置いて夢見るカメラ。【PENTAX/RICOH 一眼レフ】
  http://poppop.sblo.jp/article/186583854.html

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2019年8月6日付記事
  今日、2019年8月6日は、74回目の広島原爆忌です
  http://poppop.sblo.jp/article/186379110.html

私に今、祖父や父の仕事に少しでも近い商いができるとしたら? それはプラチナや
シルバーで美しく仕上げ、輝く真珠で装飾した高級フォトフレームや高級アルバムを
お取り扱いすることくらいでしょうか。代々の遺志を受け継ぐことができたらと思うとき
もありますが、私はどうも、そのような器の持ち主ではなさそうです。

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2019年8月9日付記事
  今日、2019年8月9日は、74回目の長崎原爆忌です
  http://poppop.sblo.jp/article/186389596.html

「吉川商店」の店名を継ぐことは、生前に父の許しを得ていませんし、畏れ多いので、
新しい店名は素直に「吉川写真店」とさせていただきました。

「安瑠芭夢驛(アルバムステーション) 吉 川 写 真 店」は、
想い出を未来へ運ぶ始発駅です。

どうぞご期待ください。

  お ま け

ゆうきまさみさん原作の学園コメディ漫画『究極超人あ〜る』の舞台、
私立春風高校の「光画部」を、皆さまもご存じでしょうか。
究極超人あ〜る - Wikipedia

そのモデルになったのが何を隠そう、
私の母校である都立板橋高校の「光画部」(現在は「写真部」として存続中)です。
『究極超人あ〜る』作者のゆうきまさみさんには身近な人がモデルの作品が多く、
アンドロイドの主人公R・田中一郎や脇役OBたわば先輩(作家のとまとあきさん)、
同じく鳥坂先輩は皆、私の数年上の先輩方がモデルです。

何回見ても面白いと評判の、1991年に制作された
『究極超人あ〜る』OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)の劇中では、
クライマックスに至るJR飯田線沿線を巡る珍道中のエピソードが描かれています。
今なお本作の新しいファンを開拓し続けている伝説のエピソードですが、こちらも
実話がネタになっています。ただし飯田線(当時は国鉄)の撮影旅行は「光画部」
ではなく「鉄研(鉄道研究部、現在は廃部)」の恒例行事でした。もっとも「鉄研」の
前身は「光画部鉄道写真班」でしたから、部員の多くは兼部していて両方の行事
でもあったのです。そのような訳でどちらの部の顧問の先生も無干渉かつ放任で
(「鉄研」の顧問は私の担任の先生でもありましたが)、OBの諸先輩方が引率の
保護者代わり(?)でした。私も「鉄研」部長と「光画部」副部長とを兼任しておりま
したので、本作主役のモデルになった3人の先輩方には、何かと、色々な意味で
お世話になりました(「光画部」より「鉄研」でのご縁の方が多かった気もしますが)。

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2018年4月25日付記事
  「光画部」の思い出 〜暗室よ永遠に〜
  黒白フィルムおよび黒白印画紙販売終了のご案内が
  富士フイルムさんからありました
  http://poppop.sblo.jp/article/183052513.html

 参考記事)
  当ブログ『想い出を未来へ運ぶ始発駅*安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店』
  2019年6月10日付記事
  【新開発】富士フイルムさんが写真用黒白フィルム
  「アクロスII」の開発に成功! 2019年秋発売予定【速報】
  http://poppop.sblo.jp/article/186120772.html
posted by 安瑠芭夢驛(アルバムステーション) 吉 川 写 真 店 at 02:21| お知らせ