2020年08月06日

今日、2020年8月6日は、75回目の広島原爆忌です。そして明々後日8月9日は、75回目の長崎原爆忌です。その翌日、8月10日は山の日です。その日は、

*この記事は、2020年8月6日から24日にかけて編集、追記されたものです。

  今日、2020年8月6日は、75回目の広島原爆忌です。
  そして明々後日8月9日は、75回目の長崎原爆忌です。
  その翌日、8月10日は山の日です。その日は、

8月に入って梅雨が明けた途端、埼玉県は連日35度を超える猛暑日に見舞われて
います。皆さまにおかれましては暑さ対策、コロナ対策を十分にとって、マスクによる
熱の発散の妨げには特に注意していただきたいと思います。私も十分に注意します。
体力低下は新型コロナウイルスの感染リスクを高めますので、栄養も休養も十分に。

さて、この夏予定されていた各地のお祭、東京オリンピック、パラリンピックはもとより、
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ制作の映画、実写版『ムーラン』(原題:Mulan)の
公開も新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延から延期になり残念に感じています。
8月24日、本作の日本での劇場公開中止と9月4日配信開始が正式発表されました。

 関連リンク集) 2020年8月24日追記
  『ディズニー公式』 2020年8月24日付 ニュースリリース
  映画『ムーラン』ディズニープラス配信についてのお知らせ|映画
  https://www.disney.co.jp/movie/news/20200824_01.html
  『Disney+ (ディズニープラス) 公式』
  『ムーラン』|実写映画
  https://disneyplus.disney.co.jp/program/mulan.html

 関連リンク)
  『ディズニー公式』 2020年7月27日付 ニュースリリース
  『ムーラン』公開延期のお知らせ|映画
  (リンク切れ)

本作は、1998年に日本でも公開された同社制作のアニメ版『ムーラン』をリメイクした
作品で、アニメ版は私もビデオで鑑賞しました。11世紀の中国の漢詩集『楽府詩集』
に収められた『木蘭辞』をモチーフにした創作で、東洋を舞台にしたディズニー作品は
本作が初めてということです。制作スタッフには東洋人も多く参加し、東洋文化を色濃
く映し出す演出が見事です。例えばご先祖さまの墓所は故人の墓標というだけでなく、
その御霊を敬いお祀りし礼拝するための場として描かれています。ヒロインのムーラン
は冒頭、仲人のご婦人の前で大失態をしでかしお見合い相手に紹介してもらえず打ち
ひしがれて帰るのですがそんな娘を両親は優しく慰め、何よりお墓に祀られた代々の
ご先祖さまの存在が彼女の心の拠り所になるのでした。中国、朝鮮そして日本も含む
東北アジアには特にご先祖さまを崇拝する文化が定着しています。お盆もそうですね。

▽代々のご先祖さまのお墓に礼拝するアニメ版のムーラン。
 「予告編」のタイトルバックに選ばれるほどの名シーンです。
 『ディズニー・スタジオ』 「YouTube」公式 2018年12月18日 付公開、
 「アニメ版『ムーラン』ブルーレイ・DVD・デジタル配信 予告編」のスクショ(こちら)。
181218_mulan_101.JPG
▽代々のご先祖さまを祀るお堂に礼拝する実写版のムーランの父。
 「主題歌」のMVの冒頭に出てくるほどご先祖さまの存在は偉大です。
 『ディズニー・スタジオ』 「YouTube」公式 2020年7月27日 付公開、
 「実写版『ムーラン』主題歌 Loyal Brave True」のスクリーンショット。
200727_mulan_101.JPG
 (c)Disney

『木蘭辞』も映画『ムーラン』も主人公は父に代り男装して出兵し手柄を立て、皇帝に
軍人として高い位を授けられるものの、あえて辞退し懐かしい故郷へと帰るのでした。

 関連リンク集)
  『ディズニー公式』
  『ムーラン』 ブルーレイ・DVD・デジタル配信
  https://www.disney.co.jp/studio/animation/0542.html
  予告編・動画|ムーラン|実写映画|
  (リンク切れ)

私は、お盆には帰省はしません。
新型コロナ禍の最中だからではなく、両親共ども、生まれも育ちも東京都だからです。
(東京にも、今はもどれません。訪ねるべき家もありません。)

私は27歳の半ばまで東京都板橋区の下赤塚(現、赤塚新町)で育ち、暮らしました。
生まれたのも当時の自宅近くの産院です。
父は東京都豊島区大塚、母は同じく中央区佃の出身ですが、代々江戸っ子という訳
ではなく、父方の祖父は長野県の飯田、母方の祖父母は福島県の庭坂の出身です。
両親とも住宅街の核家族に育ったことになります。祖父母の出身地の親戚とのご縁
はもうすでにまったくありません。なので、ご先祖さまから受け継いできた故郷、田舎
というものが、私の家にはありません。田畑や牧場、山や海とも縁が無いので、地元
で自ら手がける食の恵みというのもどこか他人事のような環境で暮らしてきたのです。
(むしろ、東京都内で農地や湾岸が造成されて行くさまを目の当たりにしてきました。)
当店「安瑠芭夢驛 吉 川 写 真 店」のお客さまの多くは、奇異に思われることでしょう。
今お住まいのこの地元こそが、生まれ育った、あるいはこれから暮らして行く故郷に
ほかならないのですから。そのことはごく当たり前のことなのだと、私は日中、お店を
離れることはないのですが、お客さまと接する中で毎日感じさせていただいています。
私の生立ちは宿命的なものでしょうか。人は故郷を想い生きるものだと考えたいのに、
私には自分の故郷から昆布や干物や林檎や蜜柑やお米や乾麺や味噌や醤油などが
届けられる、あるいは自分の方からそれらを遠くの誰かへ贈るということさえ、極あり
ふれたことなのにあり得ないのですから。いつかそんな日が訪れることもないのです。

その昔、出稼ぎで江戸へ移住した人自身は江戸っ子としては認められず、孫の代で
ようやく認められたそうです。もっとも、江戸で三世代家を続けること自体容易なこと
ではなかったようで、それは多分、今の東京でもあまり変わらないような気がします。
せっかく三世代続いても、宵越しのお金が持てないのでは洒落にならないですよね。

しかしながらご先祖さまの御霊が眠る土地こそを故郷、田舎と呼ぶのなら私の場合、
長野県の飯田市や福島県の旧庭坂村(福島市町庭坂)になるのでしょうか。どちらの
地も美味しい林檎や梨が採れ風景も良く似ています。飯田市は木曽山脈と赤石山脈
とに挟まれた天竜川沿いの伊那谷(伊那盆地)に、福島市は吾妻連峰と阿武隈高地
とに挟まれた阿武隈川沿いの福島盆地に位置し、清流と雪山と果樹園とが織り成す
眺望は誠に清々しく雄大です。私も、帰れるものなら帰りたいという想いで一杯です。

誰にとっても大切な故郷を戦火で失い追われる気持ちはどれ程のものだったでしょう。
第二次世界大戦の末期、それぞれ東京都内にあった私の両親の住いは、間近まで
焼夷弾による空襲の火の手が迫りましたが、奇跡的に戦火を免れ両親とも家族全員
が無事で、疎開先からも戦線からも抑留所からも家族全員が無事に生還できました。
家族諸とも先祖代々の住いやお墓まで1発の爆弾が消し去ることもあったというのに。
ご先祖さまの御霊は、故郷を遠く離れた子孫の命や暮らしまでお守りくださったという
のでしょうか? 

ところで、皆さまは「パンプキン爆弾」をご存じですか?
1945年8月9日午前11時2分に長崎市へ投下された原爆(原子爆弾)「ファットマン」
とほぼ同形の爆弾が、同年7月20日午前8時過ぎ、福島市市街より東側の渡利地区
上空で炸裂しました。長崎市投下の原爆と違う点はその内容と外観の南瓜色。高性能
爆弾ではありましたが原爆ではなく、原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練とデータ収集
とを目的にした「模擬原爆」でした。「模擬原爆」は福島県内だけでも6発(1発は投棄、
5発確認)が福島市、郡山市、いわき市に投下され、43人が亡くなり大勢の方が負傷
されました。「模擬原爆」は全国で「18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄
し爆弾は海上投棄された)が7月20日〜8月14日に投下され、全体で死者400名・
負傷者1200名を超す被害が出た記録が残っている」(パンプキン爆弾-Wikipedia
とのことです。これらの訓練が1945年8月6日午前8時15分に広島市へ投下された
原爆「リトルボーイ」の爆撃機の接近の兆候も「パンプキン爆弾」の爆撃機との誤認を
招き、結果として大勢の市民の方々の避難行動が遅れた可能性は否めないでしょう。
「模擬原爆」の内どれが本物の原爆であったとしても不思議ではなかったと思います。
被害に遭われ亡くなられた方やご遺族にとっては、「模擬原爆」でも爆弾は爆弾です。

 関連ニュース)
  『産経ニュース』 2015年8月26日 7:00 付記事
  【戦後70年 東北からの伝言】(6) 「模擬原爆」被害の斎藤ミチさん
  https://www.sankei.com/region/news/150826/rgn1508260038-n1.html

いずれにしても1945年7月の時点で当時の日本はすでにこれ程多くの、50発分を
越える原爆の爆撃機の侵入を許す状況にまで追い詰められていたと言えるでしょう。

原子爆弾や水素爆弾など核爆弾の威力はその破壊力の大きさもそうですが、放射能
の被害の苦しみ、恐ろしさが従来の兵器による空爆との、もっとも大きな違いでしょう。
そのため放射線強化型核爆弾と呼ばれる中性子爆弾も後に発明されましたが、それ
ら発明の意図は、願わくば物理学者の間だけで仕舞っておいて欲しかったものです。
そうすれば膨大な研究開発費も他の多くのことに役立ったことでしょう。ロマンチスト?
研究開発は、一旦始めてしまうと行き着く処まで行くほかない、ということなのでしょう。
一つの仮説は新たな複数の仮説を呼び、立証し続けなければいけなくなるものです。

私のご先祖さまの故郷の話しにもどります。
父方の祖父の故郷、長野県飯田市は木曽山脈と赤石山脈とに挟まれた天竜川沿い
の伊那谷(伊那盆地)に位置し、両山脈とも飛騨山脈とともに、「日本アルプス」に属し
ます。「日本アルプス」の名は明治時代、1880年代にイギリス人の登山家らによって
命名され、本を通じて世界中に紹介されました。アルプスと言えばスイスとイタリアと
の国境に鎮座するマッターホルン山が有名で、当店のお客さまも、麓まで旅行された
方はこれまでにもたくさんいらっしゃいます。そして同じくらい行かれる方が多いのが、
「日本アルプス」のマッターホルンと呼ばれる飛騨山脈の槍ヶ岳です。同時に、スイス
で想い出されるのが天竜川の上流に広がる大きな湖、諏訪湖です。湖岸には私たち
とご縁が深いセイコーエプソンさんの本社・工場があり、オメガさんやロレックスさん
の本社・工場があるスイスのビール湖(ビエンヌ湖)の湖岸に肖り、「東洋のスイス」と
呼ばれていた時期もありました。

「東洋のスイス」は福島県にもあります。
母方の祖父母の故郷、福島県旧庭坂村(福島市町庭坂)は吾妻連峰と阿武隈高地
とに挟まれた阿武隈川沿いの福島盆地に位置します。吾妻連峰の向こうは磐梯山
や安達太良山に囲まれた磐梯高原または裏磐梯と呼ばれる風光明媚な観光地で、
桧原湖や五色沼に代表される湖沼群でも知られています。私も、隣り町の中学校の
遠足などで、記念写真の出張撮影に同行させていただいたことがあります。1888
(明治21)年7月15日の磐梯山噴火で一帯は荒廃したそうですが、その後、植林を
進めた人たちが復興の目標として想い描いた姿こそ「東洋のスイス」だったそうです。

ヨーロッパのアルプス山脈は、約1奥年前に海底で堆積した地層がその後隆起して
形成されたため、天然の岩塩に恵まれています。それに対し、陸地が隆起して形成
された「日本アルプス」に岩塩は無く、その麓で人々が生活するために海水から塩を
精製して輸送する必要がありました。「日本アルプス」に属する飛騨山脈の日本海側、
旧越後国、今の新潟県糸魚川市から旧信濃国、長野県塩尻市に至る旧千国街道が
古くから塩の輸送に重要な役割を果たし、今も「塩の道」と呼ばれています。私も中学
の卒業旅行と称して、国鉄時代の現JR東日本大糸線の白馬大池駅から千国駅まで、
まだ雪が残る山間の「塩の道」を友人と歩いたことがあります。高校に入学し、最初の
夏休みに再び歩いてみたのですが、暑さで参ってしまい坂道を登り切れず引き返した
のでした。昔の人の苦労が偲ばれる良い体験でしたが新型コロナ禍のこの夏、あまり
お勧めはできません。塩尻市からは諏訪湖の湖岸を経由し、旧甲斐国、今の山梨県
甲府市まで塩が流通したので、かの有名な「敵に塩を送る」の美談も生まれました。
大切な教訓ですね。旧甲斐国に塩を買ってもらえなければ旧越後国も塩を精製する
事業の維持が困難になります。当時も天日で濃縮した海水を煮詰めて塩に精製して
いましたので燃料の薪を得る森林は絶えず育てる必要がありお金がかかったのです。

日本では1971年以降、海水からのイオン交換膜製塩法が主流になり、燃料が節約
できるようになりました。食用の塩の自給率は約85%ですが工業用の塩はほぼ輸入
に頼っており、全体の自給率は約15%で、全需要の約80%はソーダ工業用の原料
です。日本の塩の年間生産量は約90〜100万トンで、天然岩塩の採掘所に恵まれ
たスイスの3倍以上ですが人口規模が日本は1億2千686万人、スイスが859万人
と桁違いですからこのように食用以外の塩はほぼ0の自給率に止まっているのです。
(2020年8月24日補足)
塩蔵に使う塩の需要が電気冷蔵庫の普及で減った分、電力の確保も重要課題です。
2019年現在、日本の総発電量中の原子力発電所の割合は5%程度で、稼働中の
原発は9基。2011年の東日本大震災直後は0%でした(原子力発電-Wikipedia)。

埼玉県の2020年7月1日現在の人口は734.7万人。海無し県なので海水から塩は
採れませんが、「そこらへんの草」を焼いた灰から製塩できるかもしれません(灰塩)。
また「そこらへんの草」から直接または発酵させバイオ燃料が採れるかもしれません。
なお映画『翔んで埼玉』の最後に出てくるパルテノン神殿のような施設は埼玉県民が
武装し立てこもる要塞でも核シェルターでもなく首都圏外郭放水路という春日部市の
直下約50mに洪水調整のため設けられた世界最大級の放水路なので有名ですね。
(当ブログ2020年8月22日付の記事もご覧ください。)
貴方さまはもしや、奥秩父山塊(または山地)を「東アルプス」と呼んでいらっしゃる?
貴方さまはもしや、宝登山ハイキングコースを「長瀞アルプス」と呼んでいらっしゃる?
貴方さまはもしや、天覧山から武甲山までの登山道を「飯能アルプス」と〜(以下略)。
貴方さまはもしや、小鹿野町の二子山を「秩父のジャンダルム」と〜(だから以下略)。

スイスは第二次世界大戦中も永世中立国であり続けましたが、アルプス山脈を要塞
にし、武装中立を通す構えでした。敵から塩を買わずに済む環境も良かったのかもし
れません。燃料の石油は出なくても文字通り「動かざること山の如し」だったようです。

第二次世界大戦の後、マ元帥(連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥)は、
「日本は東洋のスイスのように永世中立国になるべきだ」という趣旨の発言を述べられ
たと報じられました。連合国軍最高司令官とは「第二次世界大戦終結に伴う『ポツダム
宣言』を執行するため日本で占領政策を実施した連合国軍機関」の最高司令官です。
連合国軍最高司令官総司令部 - Wikipedia)日本が永世中立国であるためには、
色いろな意味で将来にわたりアメリカ合衆国の理解と協力とが欠かせないと思います。
そして有事の際、私はご先祖さまの御霊が眠る「日本アルプス」の麓、長野県飯田市
か、磐梯高原に近い福島県の旧庭坂村(福島市町庭坂)へ帰ることになるのでしょう。
写真機も携えて(当ブログ2020年7月27日付記事参照)。

『ポツダム宣言』は、ドイツのベルリン時間の1945年7月26日午後9時20分に発表
された後、あらゆる手段で日本へ発信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、
海軍の各受信施設が第一報を受信しました。日本政府は宣言の受諾を8月14日に
駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告し、国民へは翌日
の8月15日に「玉音放送」により発表されました。実際は8月10日にも日本から最初
の回答が複数の方法で連合国側へ送られその返答に応じ14日の通告に至りました。
今日のようにWEB会談ができたならより短期間で対話を進めることができたでしょう。

「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」とは、長崎への
原爆投下翌日の1945年8月10日、ハリー・S・トルーマン米大統領が、ラジオで演説
された言葉として有名です。ただし原爆が本当に戦争を終わらせるか確信されていた
のではなく、直後に3発目の原爆の使用に対して大統領の権限で見合わせています。
大統領が急遽権限を行使した本当の理由に、航空写真の報告から広島、長崎の想像
を超えた惨状に自身の責任の重さを悟り3発目の使用を躊躇したことが分かっています。
この判断がその後、同国の核爆弾運用に関する諸制度の策定につながって行きます。

最終的に、広島と長崎と、両被爆地の被害状況の調査や救援活動は、比較的速やか
に当事国同士である日米両国が、合同で行うことができました。私に分かるのはその
ことがどうしても必要だったという事実です。日米双方の報道写真家を含め、それぞれ
立場の違う多くの人々によって当時の状況の詳細な記録が数多く残されました。原爆
投下も戦争もいかなる謝罪の言葉をもってしても決して許されることではありませんが、
それら貴重な記録を広く後世に伝えて行くことが日米両国にとって共有すべき責任で
あり、償いなのではないかと私は想っています。戦争を終わらせなければ現実を直視
することはできません。それは事実であり、残酷なことでもあり、救いでもあるのです。

日米間の戦争を終わらせたのは原爆ではなく対話です。それを可能にしたのは戦争を
終わらせる仕組み作りに手探りで尽力された当時の人たちです。その努力を引き継ぐ
ことが大切で実現できることです。そのとき核爆弾は無用な発明だったことになります。
「戦争の抑止力としての核爆弾」とはそのことを人々が信じている間しか意味を成さず、
したがって私たちに時間はありません。核爆弾は兵器なのか? その使用は戦争か?
物理学者も軍人も政治家も答えることはできませんでした。私たちなら、どうでしょう?

軍隊を維持し続けるには労働力の確保が必要で、
たとえ戦争がなくても訓練や教育や研究のために
様々な資源を消費し続けます。そして、それらはいずれ、枯渇します。
だから核にすがろうとしている人たちが今もいます。信じますか?

私は花が好きなので、頭の中はいつも
お花畑にしていたい気持ちもあります。
もちろん、現実の世界も。
「そこらへんの草」だって花は咲きます。

広島、長崎の原爆で、
そして戦争が元で亡くなられたすべての方々のご冥福を、
これからも謹んでお祈り申し上げます。
posted by 安瑠芭夢驛(アルバムステーション) 吉 川 写 真 店 at 17:44| 未分類